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出会ったこと、出会ったおもい

深夜特急ノート 旅行から1か月経ってようやく気付くこと

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旅行の感想とかを書くためにブログを始めたのに、

6日間のウズベキスタン旅行から帰ってきて、早1か月。

 

たまたま、「いつか読もう」と思っていた

バックパッカーのバイブル「深夜特急」の後日談「深夜特急ノート」を読んでみました。

そうか、わたしこんなこと考えて旅行してたんだって、

本が代弁してくれたようなところがすごく多くて、

改めて旅行を振り返ってみようと思うようになりました。

だから、少しずつ、振り返ってみようと思います。

 

 

振り返る前に、この本で気になったところを、

ピックアップ。

これからの振り返りに、この要素を入れていきたいなぁと思います。

 

 

ちなみにですが、私は3月末に6日間、1人でウズベキスタン行ってきました。

バックパックを持って移動はしたけど、いいホテルに最低限のドライバーも

確保してあるツアーで申し込んで行ってきました!♪

 

 

【以下抜粋】

 

・そこでの話は森羅万象に及んでいた。こんなにも多様なことに関心がある人たちを知らなかった。恐らく、私は幼児がオトギバナシを聞いているかのように素直に耳を傾けていたことだろう。

 

・確かに、旅に出ると面白いことにぶつかる人とそうでない人がいるような気がする。吉行さんと私の「面白いこと」は違うにしても、やはり私も面白いことによくぶつかる。面白いことが向こうからやって来るという感じさえする。

 

 

・ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。

 バスの窓だけではない。私たちは、旅の途中で、さまざまな窓からさまざまな風景を眼にする。それは飛行機の窓からであったり、汽車の窓からであったり、ホテルの窓からであったりするが、間違いなくその向こうにはひとつの風景が広がっている。

 しかし、旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景の中に、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、それが自身を眺める窓、自身を眺める「旅の窓」になっているのだ。ひとり旅では、常にその「旅の窓」と向かい合うことになる。

 フレドリック・ブラウンが『シカゴ・ブルース』というミステリー小説の中でこんなことを書いている。

 

 「おれがいおうとしたのはそれだよ、坊や。窓の外を見たり、なにかほかのものを見るとき、自分がなにを見てるかわかるかい?自分自身を見てるんだ。ものごとが、美しいとか、ロマンチックだとか、印象的とかに見えるのは、自分自身の中に、美しさや、ロマンスや、感激があるときにかぎるのだ。目で見てるのは、じつは自分の頭の中を見ているのだ」

 

 ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それはさびしいことには違いないが、吐き出されない思いは深く沈潜し、忘れがたいものになっていく。

 

 

・もしかしたらあの旅の話は他人にとっても面白いものなのかもしれない、という発見は私にほんの少し自信を与えてくれた。

 

 

・私は、『深夜特急』を書き進めていく過程で、その白井氏の言葉を何度となく思い出すことになった。

 重要なのはアクションではなくリアクションだというのは、紀行文でも同じなのではないだろうか。どんなに珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまり面白くない。

しかし、たとえ、どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。たぶん、紀行文も、生き生きとしたリアクションこそが必要なのだろう。

 

 

 

・振り返ってみて、もしいまあのとき食べたのと同じものを食べたとしたらどうだろう、もしかしたらあまり感動しないかもしれないな、と思ったりもする。

 つまり、あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。

なぜなら、未経験ということ、経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ。

 

 

 もしそうだとするなら、旅をするには幼ければ幼いほどいいということにならないか、という疑問が湧いてくるかもしれない。しかし、それはそうはならない。極めて逆説的な言い方になるが、未経験者が新たな経験をしてそれに感動することができるためには、あるていどの経験が必要なのだ。

 

 

・私が松田先生の授業に惹かれたのは、授業の合間の雑談が面白かったということもあるが、それ以上に、人間としての松田先生が興味深かったのだろうと思う。私たちは、少なくとも私は、大学の講義に、書物に記されてあるような知識の断片を求めているわけではなかった。

私たちは、いや私は、大学の教師から何らかの「熱」を浴びたかったのだと思う。その「熱」に感応して、自分も何かをしたかったのだと思う。

 

 

・「問題は予期しないことが起きるということを予期していないところにあるのではないか」ということだった。

 

 そのとき、「あっ、予期しなかったことが起きてしまった!」と動揺するのではなく、まず「こういうことは常に起きうることなんだ」と思うことが、予期しないことに対処する力を引き出す第一歩になるのだ。

 

・そのとき、大事なのは、あくまでも予定を守り抜くことと、変更の中に活路を見出すことのどちらがいいか、とっさに判断できる能力を身につけていることだ。それは、言葉を換えれば、偶然に対して柔らかく対応できる力を身につけているかどうかということでもある。

 

 そうした力は、経験や知識を含めたその人の力量が増すことによって変化していくものだろうが、それはまた、思いもよらないことが起きるという局面に自分を晒さなければ増えてこないものでもある。

だからこそ、若いうちから意識的に、思いもよらないことが起きうる可能性のある場というものに自分を晒すことが重要になってくるような気がするのだ。

 

 

・ひとり旅の最も良い点というと、これは妙に聞こえるかもしれないけど、相棒がいないことだと思っています。話し相手がいないと自然と自分自身と向き合うことになるから、この風景の中で自分は何を感じたか、この土地についてどう考えたか、常に自分に問うことができる。

それに、ひとりで異国を旅していると危機的な状況に直面するときもたって、そうしたときにどんな行動ができるか、自分を試すというか、確かめることができる。

 

 

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旅した時の沢木さんは26歳。私はいま25歳。

今さら大学生みたいなことして、って思ったけど、

ちょうどよかったんやん、って安心しました。